約束するよ。何処に行っても、最後には乱菊の所へ帰ってくるって。
凍 土 の 花
濃い灰色に汚れた空。
荒れ果てた野原はただっ広く、茶色の土がほとんど見えている。
「市丸隊長。お命頂戴します。」
至近距離。
一切のためらいを振り切って貫いた胸から、生暖かな返り血を浴びた。
ポタポタと刀から血が落ちる地面に、笑いながら崩れ落ちそうになる幼馴染を、乱菊は苦渋の表情で支える。
「…よけなかったわね」
「うん」
「わざと?」
「せや」
だって、僕を殺すのは乱菊だって決めてたもの
「勝手ね」
吐きすてるように言う。
「よくも…よくも……!私にこんな真似させたわね。ギン…!」
ニヤリと男は真意の測れない笑みを浮かべ、血に塗れた手で乱菊の頬に触れた。
「知ってた?乱菊。男の子が悪戯して先生に叱られるのは好きな子に振り向いて貰うためだって」
「幼稚ね」
「せや、幼稚や。だってボク昔からちぃっとも成長してないもの」
「……」
乱菊は男を支えきれず膝をつく。
男の体が段々重くなっていく…――。
刀を引き抜く。男は微かに呻いてから、空を見上げる。
何かに気づいたかのように、あぁと声を漏らす。
…雪が降る。
「乱菊。すぐに雪が降るよ。はよ家に帰らなあかんなぁ。ああ、でも――」
もう乱菊の所へ帰ってきたから、どうでもえぇね。
怪しい呂律。たださえ何処を見ているかわからない狐目が虚ろに浮ついている。
乱菊は堪らなくなって、そのふっくらとした唇をかんだ。
「卑怯な男。私が気づいていないと思ってたの?あんたが私のためだと思っていること、結局は自分のためでしかないって。私を利用していたんだって。あんたが何一つ私に喋らないで、全部背負い込むのは、その償罪だって。私が気づいていないとでも思ってたの?」
それが腹ただしくて、悔しくて。私を寂しがらせていたって知っていたの!?
激高する乱菊の言葉に男は答えない。
代わりに、芯から穏やかな笑みで男は語りかける。
乱菊ですら見たことがない笑み。
「…ほな。ボク地獄へ行ってくるよ。…あかんなぁ。おっかなくて震えが止まらなくて、しゃーないわ」
まるで遊びつかれた子供のように満ち足りた表情。
ふざけた事を。怒鳴ろうとした言葉は、しかしこの男は今初めて自分に己の行き先を伝えたのだと気づいて飲み込んだ。
行き先を伝えないこの男の幼いころからの悪癖。
それが今。その意味はわかりきってしまっていて、乱菊から言葉を奪う。
「乱菊」
空気が変わる。
乱菊は悟る。
この男は
これから自分が最も望んでいた言葉を口にするだろう。
けれどその言葉をこの男が口にするときは、この男がこの世界と決別する時だ。
肩が震える。
聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。それが出来ないならいっそ、耳を無くしてしまいたい。
しかし体は凍り付いたように動かない。これまで築いてきたはずの気丈さは何の役にも立たなかった。
「…乱菊が一番やった。ボクの一番はずっと、ずっと……」
急に溢れている血液が、生々しく映る。
目の前で起こりつつある、凍えるような現実を肌で感じて、手足が震えてくる。
あぁ。私は
「……ぶっちぎりやで」
この男を失くすのだ。
「乱菊」
――永遠に。
それから男は、まるでその言葉しか知らないように
幼い子供のように、拙く。
乱菊。と繰り返した。
その声は如如に小さくなっていく。比例して男の衣服を掴む乱菊の手に力が込められていく。
少しでも男の魂を繋ぎとめようとしているかのように。
最後の声は、空気と同化してしまいような消え入りそうな声で、
乱菊以外なら、絶対に聞き逃していただろう。
ポツリと彼は、彼女がずっと待ち焦がれていた言葉を置いていった。
心臓を鷲づかみにされたような、強い衝撃。
その後は、染み入るような悲しみが乱菊の心を満たしていく。
乱菊も男の耳に口を寄せて、取って置きの内緒話をするように囁く。
「私もよ」
涙が一筋頬を伝った。
抱きしめている体は、たった今男の体から魂が飛び立った事を如実に伝えた。
果たして自分の言葉は伝わったのだろうか。わからない。
男の顔を見る。まるで眠っているように――そう思えたらどんなに良かったか。
この男の寝顔なら数えきらないほど見てきた。離れていても同じ時を過ごしてきた。
だからこそわかってしまう。これが寝顔ではないと事を。
もう彼が此処にいないことを。
乱菊は男の額に、自分の額を合わせる。
「私。もっとあんたに酷い男になって欲しかった」
柳眉を寄せて、出来た眉間に深い苦悩を刻んで述懐する。
「これは全部お前のせいだって。エゴ剥き出しで、まるで私をさも当たり前に所有物のように扱って。そうしてくれれば私は努力したのに。全部、全部やってることを見せて、自分がこんなことをするのはお前のためだって、そうしてくれれば私は声が枯れるまで抗議して、あんたにぶつかって、喧嘩できたのに。あんたの中途半端な優しさが、私に怒鳴る声を奪ったのよ」
喉から競りあがってくる悔恨に、心が押しつぶされそうになる。
その時、冷たい感触が首筋に触れた。
懐かしい感覚に顔を上げると、予想通り雪花が降り始めた。
しばらく声も無く空を見上げてる。
――その時、何故不意に口から歌が零れたのだろうか。
誰もが知っている童謡。幼い頃この男と雪山を登る時に歌った。
ゆっくりゆすりながら歌ったのは、そうすれば男が眠っていると思えたからか。
否
その行動は目的のための手段ではなかった。
もっと衝動的な。あらかじめ体に組み込まれていたプログラムのように自動的な――
現在の行動を過去の思い出に突き動かされる。
厚い鉛色の空から墜ちてくる白花を見る。乱菊は歌を口ずさみながらぼんやりと思い出す。
自分が雪で滑って転ばないように、差し伸べられた手。
作物を得るために、素手で雪を掘った手は痛々しいほどかじかんでいた。
もっと私の手が暖かければ良かったのに。ぎゅっと包み込むようにその手の平をにぎった。
どこで、どうして間違えた?
いつ、誰が、なぜ、何が悪かったのか。
――すべてが自明だ。
「全部あんたが悪かったのよ」
瞳にぽつりと雪が落ちる。涙が枯れていた目尻で、じわりと溶けていく。
あぁ。いけない。こんな所を誰かにみられたら、また泣いているように見えるだろう。
「市丸隊長ォォォオオ!!」
地をつんざくような絶叫。
あまりのタイミングの悪さに苦笑する。彼の副官が背後から、こちらに向かって走ってくる。乱菊は振り向かない。
彼の副官がすぐ後ろで刀を引き抜く。それでも乱菊は振り向かない。
彼女は微笑む。
文句なんか聞かない。
幼かった私は待つことしか知らなかった。
けれど今の私はあんたのせいで追いかける事を覚えてしまった。
全部アンタが悪い。
背中に熱が走った。
腕の中の男と供に地に倒れ込むと、いつの間にかそこには純白の絨毯が出来ていた。
冷たく、真っ白な地面に色鮮やかな鮮血が。目尻から流れた紛い物の涙も、あの時 食べた甘い果実の味も、触れて欲しかった心も躯も、この男も、私も、想いも、雪も、すべて。
あふれて混ざり合って溶け合って
満ちた。
end